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ポン プルクワの飼い主、くねくねです。
みなさん、こんにちは。

ポン プルクワさんは、2019年9月28日の午前11時すぎに、わたしと妻のちょろが見てるなか、ゆっくりと死にました。

去来したのは、ポンちゃんの息子、カントのときと同じで、闘病の末のことなので

「よく頑張ったね、お疲れ様」

という安堵でした。


いくつかお話したいことがあります。

猫と暮らすということ

猫が死ぬということ

生きるということ

18年間

ブロゴを読んでくださったみなさん

あの世などないということ

これから


猫と暮らすということ

18年前の9月11日にわたしは、ポンちゃんを新浦安駅のすぐそばで拾い(ポンちゃんが言うのは拉致し)ました。
猫を飼ったことなどないから、すごい無知から始まって、なかなかリテラシーが上がらないまま数年過ごすことになりました。その点、振り返って思えば、申し訳なく思います。30人以上の人がマンションに集まって騒いで、タバコの煙だらけになったこともあるし、うーんきりがないし開陳すればするほど、わたしの評判が悪くなりそうなので控えますが、いっぱい失敗もしています。

拾ってみたら、妊娠していて意図せずに子猫も育てなきゃいけなくなって、ポンちゃんと息子のカントと暮らしていくことになりました。

幸運にもポンちゃんもカントも長生きしてくれて、それをとてもありがたく思います。存命中概ね健康な2頭でしたし。

さて18年も猫と一緒に暮らしていたら、一家言を持っていてもいいくらいなんですが、特に見当たらないんです。ただ、生活に困っても、生きるのが辛くなっても、「猫を捨てる、諦める」という概念が浮かんだことはありませんでした。

「お金がなくなったら、猫2頭と一緒に代々木公園に住むことになるかも」

なら、何度か考えました(笑)。責任感のつもりもあまり有りませんでした。「猫が死ぬまで一緒に暮らす」は普通のことでした。

その辺は、今猫と暮らしている方にも、これから暮らすかも知れない方にも、そうあれかし、と思うところです。


それと猫と暮らすというのは、面倒なことがいっぱいありますが、「楽しい」ことこの上ない。わたしは、猫がわたしより先に死ぬだろうと想定していたので、後悔しないように、猫が明日にでも死ぬことだってある、と思うように訓練してきました。悲しみの前払い、それも分割、みたいな感じです。

おかげで、「もっとああしてあげていればよかった」なんて湿気た思いが喚起されることなどありませんでした。前払い、お勧めします。

さて、どう面白かったのかというと、恋人や伴侶とはまた別の、自分ではない価値観と暮らすことによって広がる世界に常に触れられるところです。

猫は目が悪いし、赤色もわかりません。群衆性、社会性は犬より低いので表情筋が少なく、何を考えているのか分かりづらいものの、コミュニケートはけっこうできます。頭も意外に良いです。(息子のカントは、請求書を人質にとって朝ごはんを要求したこともあったくらいです。)飼い主が、死ぬほど落ち込んでいても、ご飯は常に要求してきます。具合が悪くなると隠れます。死にそうになっても絶望などせず、1秒でも長く生きようとします。感心します。その他、言葉にならない一切合切を堪能できます。振り返っても満ち足りいました。



猫が死ぬということ

猫や犬が死ぬってことは、わかりきったことなんですが、おんなじことが人間にも自分にも言えて、死ぬからこそ大事なものを大事だと知れ、大事じゃないものにコストがかけられないってことを日々学びました。

妻には何度か言ったことがあるのですが、去られる飼い主側から見れば、寂しさMAXの死別ですが、犬猫からしたら、愛し愛され続けてライフを全うするって、この上ないくらいの幸福だということ。わたし自身もそうありたいものです。だから、死で終わる犬猫のライフが、夭逝じゃないなら、愛されまくって死ぬって、いいライフが良いままに締めくられて、いわゆる「めでたしめでたし」で終わるわけで、それは、不幸というよりは断然の幸福でしょう。

だから、わたしはそんなに悲しくないです。楽しかったなぁという感慨ばかりが湧きます。それではまるで冷血漢じゃないかと思われるかもしれませんが、誇って「大事に一緒に生きてきた」自負を持っています。



生きるということ

ポンちゃんの最後の方の姿をみて、思ったのは、生きる意味など問うことなどない、シンプルな生き物の姿勢から得る思念はひとつで、

「生きるために生きる」

でした。死に際に、大事な人に何か言葉を残すシーンがフィクションにありますが、そんな大事なこと、生きてピンピンしているときにやっときや!と思うわけです。やりたいことは今すぐしたほうが良い。そして人生に、命に、意味なんて特にない。どシンプルに、生きることが目的そのもの。社会貢献とか納税とか関係ない。生きるぜ!ということのみから出発して良いって概念に、進化心理学などその他を学んできた経緯もありますが、ポンちゃんの生き様が最後のひと押しになって、至りました。



18年間

長いのに、上手く振り返れないですね。その暇で、自分の今からしたいこと、妻、犬たちに時間を注ぎたいって思います。そうは言っても、ポンちゃんやカントの感触や気配というのは、随分と身体が覚えています。ポンちゃんが死んだあとも頭を撫でていましたが、死んでもおんなじ感触なんですね。頭蓋の感触、毛の流れ、何千回って撫でたから覚えています。忘れても良いんですけど、それらの記憶を愛おしく思います。



ブロゴを読んでくださったみなさん

決してバズるほど人気を得ることないままでしたが、本までグラフィック社の山本さんという編集者さんのおかげで出版できて、いろいろな書店に本をおいていただき、ポンちゃんやカントのことを知ったり、応援してくれたり、共感してくれたり、ってのは、どうゆう形にすれば、報えるのかわからないのですが、とてもありがたかったです。

ちなみにポンちゃんが新浦安(千葉)出身だったのに、関西弁だったのは、西のほうの出身だった、「おでこ」という同居人の影響でした。ガラが悪いキャラクターも「おでこ」の影響だと思います。

同居していた(いる)人たち、可愛がってくれたみなさん、ポンちゃんを応援してくれたみなさん、出版社の方や、関係者のみなさん、ありがとうございました。



あの世などないということ

優しい方々から、「ポンちゃん今頃、死んだカントに会って仲睦まじくしているんでしょうね」とコメントをいっぱいいただきました。嬉しいんですけど、わたしは、死んだら終わりだと思っています。死んでから補えるチャンスなんて無いんで、今、大事にするしかなって思っています。とまれ、何よりも犬猫妻を優先できるわけじゃないです。それでも後悔しないように仕事やその他を優先しないように勘案して時間って貴重なリソースを使ってきました。

人生って別にすごく貴重なものじゃないですが、死んだら終わりです。だから大事なものは今大事にすべきです。やりたいことは今すぐすべきです。それがくだらないことで構わないので。わたしのなかでは、もうポンちゃんはあの世にも煉獄にもいません。カントにも会えてません。でも、カントが生きている間に、ポンちゃんはすでにいっぱいカントを大事にしていました。それで満点です。わたしもわたしに概ね満点をあげています。



これから

できるだけ、このブログはこのままおいておくつもりです。潮目が変わったら消すことがあるかもしれませんが、しばし残しておきます。


さて、偉そうな言葉も含んでいる気がしますし、ポンちゃんのブログを締めくくるには相応しい自信はありませんが、ポンちゃんと一緒に暮らしてきたくねくねが思うところはこんな按配です。死ぬことを直視しないで、死んでからペットロスになんてなんないでよ、というのがわたしが強く思うところです。友人から「ポンちゃんの死体をSNSにアップする意味がわからない」という連絡ももらいました。わたしの答えは「なんでいけないのかわかんない」でした。凄惨な死体ってわけでもないし、と。わたしもアン・ハサウェイも猫も犬もみんな死にますで。自分も同じように死ぬので、そうそう「自分は死なない存在として先逝く者たちを観るなかれ」と思うのです。

みなさんにも、いつまでポンちゃんのことを忘れないで!なんて思いません。さっさと忘れていいので、思い出す時間でまだ生きている大切な者たちへ愛を注いで欲しいと思います。

でも、とは言え、嗚呼、ポンちゃんと暮らし続けた日々は、宝物です。

くねくね





[ 2019.10.01 | 猫日記 | コメント: 0 | PageTop↑ ]
あたしは、猫で、飼い主によると今日でいっしょになって18年目なのだそうだ。

あたしの名まえは、ポン・プルクワという。

あたしは、ぐあいがとても悪くて、なるべくうごかないようにしている。

どんなぐあいの悪さかというと、うんこが汁になってでて、きもちがわるいし、うまくトレイでできないこともままある。からだのなかがいろいろ痛くてじっとしているのもつらい。食欲はわくが、たべるとつらくなるので少しずつしかたべたくない。よろけるがしかいは良好。痛いのもあってうまくねつけない。

だいたいこんなあんばいである。

あたしには、飼い主が現在ふたりいて、ひとりは18年まえに外で暮らしていたあたしを拉致した、くねくね(オス)。そのくねくねと一緒にいま暮らしていて、かわいいかおと声なのに、犬二頭をわがやに連れ込んだおそるべきメス、ちょろ。

犬たちには、もうなれたが最初はなにがおこったのかわからない混乱が発生したものだった。

その飼い主である家人たちのようすは、とくにかわりがないが、あたしのそばで過ごす時間が少し増えた感はある。ちょろは、先日、あたしの横で泣いていた。くねくねは、泣かないし、悲しい匂いもあまりださない。ただ、あたしのそばに来ては、もうたぶん何千回になるだろうが、あたしの眉間を何度も撫でていく。眉間を撫でると長生きする、とかそんな話を勝手に信じ続けているのである。

あたしにだけではなく、犬たちにも、ときおりならちょろにも眉間を撫でている。

彼らの様子をみるにつけ、またあたしの体調の具合からみても、あたしはどうも死に近づいているようである。あたしの息子もずいぶんまえに近い感じになって死んでいったので、きっとあんまりまちがっていない。

こうやってブロゴを書くのもさいごかもしれない。

あたしがいまどういう心持ちなのか、ということといままでこれを読んでくれてきたひとたちにむけて思うところのことを少しでもかければと思っている。でも、それが感動的な感じになるなんてことはほしょうできない。

あたしは、いま、生きてきた18年以上(たぶん19年くらいなのかな)を思い返して、「いろいろあったなぁ」と思っているいえば、そうではない。なにもおもいかえしていない。ただただ生きることだけを考えている。もちろん「ああ、たぶん死ぬなー」とは感じている。それでも、「それはおいておいて生きるぞ」と考えている。あとは「いたいなー」とか「しんどいなー」ということだけである。

あたしじしんが、勘違いしていたのは、もう子どもを産めないから、そのかわりに何かを残したい!という動機だった。それがこのブロゴをはじめた理由だったが、あたしのなかには、そんな「何かを残したい」という思いはとくになかった。空虚なになにかはあった。だからこうやって人の言葉を使って、人にむけてブロゴを書いたことで、そして挙げ句、本までしっぱんできたことで、満たされた部分はあった。すごく。

その結果、あったこともない人たちから応援されたり、話しかけられたりしたことも、とてもおもしろかった。

ただ今思うに、あたしがしたいのは、何を残すことでもなく、もうたんじゅんに生きるってことなんだということである。

死ぬ前にあれがしたい、これが食べたい、ということでもない。そういうのは、生命の有限性を意識する人間風のかんがえである。あたしは、もっとシンプルである。

ただただ生きる、ということにつきる。

だから、ニートと呼ばれて、働かずにただ生きている人のことを人は問題視することがあるようだが、それに近い。それに意味があるのか?と問われれば、意味があるかどうかを考える理由がわからない。ごはんを食べるのに、撫でてほしくて撫でてもらうことに、触れられて安心することに、眠ることに、窓の外から入ってくる風の匂いをかぐことに、さて意味はあるのだろうか。あったところで、あたしには関係がない。あたしは、すごく単純に生きるために生きてきたし、今も生きている。死ぬまでにしたいことは、生きることである。

家人たちは、苦しむあたしが開放されるならと、いくぶんあたしの死を待つ気持ちをあるようにみえる。ただ、あたしにはそういうきもちはないし、しだいにそれに気づいてか、哀れんだり、かなしんだりせずに、ただただもくもくとあたしとともに生きている姿勢に転換したようである。そういうのを、猫のあたしは、匂いとして感じる。


いっぽうで、家人たちは、生きるということがなぜか辛く感じるという気質というか傾向を持っている。いや、持っていたと言い直しても良いかしら。最近、かわってきたようでもある。それでも、特にくねくねだが、彼は、あたしと生きているあいだ、常にとまではいわないが、しばしば生きていることに苦しんでいたようである。それをかたわらでみていて、理解できないままに気の毒に思ってきた。だから一緒にねてやったり、舐めてやったりしたのだけれど、それが功を奏したのかはわからない。

不思議である。五体満足でご飯を食べて寝てまた起きてってことで満点のはずなのに、苦しむのって、自分の尻尾を痛いのに強く噛むようなものである。長年の謎であった。

ただ、そんなくねくねが最近、少しずつ苦しまなくなってきた。また、いっぽうでちょろはちょろで、彼女も五体満足なのに上手く生きていけない気配みたいものを自分でまとって自分で苦しんでいた感がある。それが日々溶解していってかわってきているようである。つまるところ、人が子を産まないのにつがいになる理由というのは、こういうことなのかもしれない。それは良いことに思う。

生きることの意味、というものについて、人はとかく悩み探し求めるが、そんなものはない。というか興味がわかない。動く紐のほうがよっぽど興味深い。

ただ、人と暮らすのは嬉しい気持ちがよく湧く。留守にされてしばらくしてから家人たちが戻ってきた音は嬉しい。ご飯を出してくれるのも嬉しい。撫でられるのも嬉しい。かれらのいびきも嬉しい。そして逆もあるみたいで、彼らはあたしが生きていることの一挙手一投足を嬉しがっている。ライ麦畑とかいう話にでてくるレシプロケイトということばを思い出す。

あげたりもらったりする関係という意味だった気がする。

それにだって意味があるかどうかしらない。意味はしらないが、嬉しい。みんな嬉しい。

だから強いて言うならば、この嬉しいを何度も何度も感じられることに満足を覚える。それは言い換えれば、しあわせと呼べるのだと思う。

体中が痛いいまでも、家人があたしのそばにくるだけで嬉しい。そしてみみのうしろを撫でたり、眉間を撫でたりしていくのも嬉しい。そのとき、彼らが発する匂いを感じるも嬉しいし、ときどき寂しい。

生きている意味なんてしらないが、生きていて楽しいのだから、生きている理由はばっちりある。

生きている理由は、生きたいから、生きているから、そして嬉しいを与えあえるから。

せかいにあたしひとりでもあたしは生きていくだろうが、げんじつには、あたしは、家人たちと暮らしていて、かれらの匂いや指や音があってうれしい。かれらもあたしの音や匂いや動きやこえを嬉しいようである。それは良いことだろう。

いろいろなことを知ってきた。世界はすごく広くてしかも広がり続けているそうだ。だけど、生きるということはシンプルだ。生きる。そして嬉しいのが良い。

あたしは、このブロゴを通して、猫風ではなくって、1猫の考えを伝えたく思ってきた。ツンデレもでないし、語尾にニャアをつけているつもりもない。テオテニーしているつもりもない。普通に生きて、日々、人の(っていうかほとんどくねくねとちょろ)不可思議な行動をおもしろく思ってきただけである。息子が生きていたときには、もう少し理解しやすい安堵があったが、それも嬉しかったが、失っても、不在に慣れた。

外の世界も少しは探検した。

体中痛いままだし、具合も悪い。戦況は悪化している、といった感じである。それでも、あたしは生きていて、少しうれしい。

死ぬ前になにかメッセージを、という思いでこれを書いたわけではない。齟齬がないようにしたかった。あたしは、生きていることを今このときも嬉しく思っているということを伝えたかったのだと思う。先日知ったのだけれど、閉じ込め症候群という動けないけど生きている人間が何を考えているのかわかったというニュースがあった。その人の言葉は「生きていることが嬉しい」というものだった。あたしはその人に共感する。

あたしは、毎日嬉しい。死ぬまできっと嬉しい。

P

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[ 2019.09.11 | 猫日記 | コメント: 1 | PageTop↑ ]
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猫のポン・プルクワです。

犬猫合同の集会というのが、7つある季節ごとに各地域で開催されている。
外に出られない猫、犬もいるのでニャット(やワット)を使っての参加者が2/3弱。それ意外は、ハイブリッド派とアウトドア派である。

あたしは、軟禁派なので、忘れなければニャットで参加している。昨晩、ちょうどその集会があった。このあたりでは、むかし侯爵だった人の家の庭が集会所になることが多い。

わだいは、

•ねっちゅうしょうへのちゅういのよびかけ

もちろん外派へのちゅういは当然のようにおこなわれるのだけけど、軟禁派(インドア派)にも、ねっちゅうしょうはおこりえるとのこと。エアコンのボタンの押し方、モードがいつくつかあって、間違ったボタンを押すと、むしろ暑くなることがあるのでちゅういとのことだった。
飼い主がうちにいるときに、試しに押して、どれが涼しくなるボタンかをみきわめようというないようだった。


•水場マップ

それともなった外での水飲み場と日陰マップ。アソファルトは、日中わなみたいにあつくなるので、土や草のルートのしゅうちがてっていされた。

日中に散歩にいこうとする飼い主への抗議レクチャー

このきせつ、そとのアソファルトは、ものすごく熱くなっていて、肉球が猫、犬ともに焼けただれる。にもかかわらず、それに気づかずに、犬の散歩をしようとする飼い主たちがいる。犬たちは、それを

「怒りのデスロード」


と呼んでいるのだけれど、散歩=嬉しいというさがで、ついそとに出てしまうものがいるという。なので、時間や太陽のいちを見極めて、デスロードタイムには、だんこ拒絶してそとにでないようにしましょうというちゅういがなされた。

そのほかは、
•米中ぼうえき摩擦にともなったかていないの雰囲気の低下
•ダニ・ノミ・蚊への警戒
•猫犬の生きている数の増減報告(微減)

というないようだった。

あたしもさっそくエアコンのスイッチを試してみた。

じかいの開催は、つぎの季節のはじまりにおこなわれる。


P


あたしのエッセイ集がしっぱんされてます。読んでくれたらごろごろいうほど嬉しいます。




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[ 2019.08.09 | 猫日記 | コメント: 0 | PageTop↑ ]
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白黒猫のポン・プルクワです。

さくばんから、ちょろ(女性の飼い主)がいない。
いっていいものか、これは別居とか離婚というものだろうか。
こころなし、くねくね(男性の飼い主)も元気がないようにみえる。

小泉さんとなんとなくクリステルさんの結婚がニュースになっているのも、彼を傷つけているかもしれない。

それでも、わがやは平和で、静かである。

ただ、うちのなかで飼い主のつがいのどちらかがいなく夜って、きまって残ったほうはすごく夜ふかしをする。さくばんのくねくねもすごく夜ふかしをしていた。これはばっちり相関関係があるとあたしはふんでいる。

それから、ひまのなので、きょうは水場の探検をしてみた。

水が多いところは緊張する。



P


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[ 2019.08.08 | 猫日記 | コメント: 0 | PageTop↑ ]
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白黒猫のポン・プルクワです。

さいきん、弱って死にそうで、脳が暇なので、撫でられた回数をかぞえている。
具合悪いなーってときは、具合悪いことばかり考えてしまうので、読み終わったジャンプしかない状態ですごす夏休みみたいにワンコンテンツなんで、ちょっと別のコンテンツを作りたくって。

8がつ1にち くねくね21かい ちょろ16かい

8がつ2にち くねくね3かい ちょろ9かい

8がつ3にち くねくね0かい ちょろ7かい

8がつ4にち くねくね5かい ちょろ6かい

8がつ5にち くねくね7かい ちょろ5かい

8がつ6にち くねくね30かい ちょろ3かい


けっこうムラがある。

これは何と関連しているのかしら。
もちろんいえにいる滞在時間との相関もあるだろう。

矢野経済研究所に協力いただいてみると
ちょろの場合、ニューヨークダウ平均株価の推移に相関しているかもしれないとのこと。
サンプルが少なすぎるという指摘を受けたが、興味深い結果である。

くねくねの場合は、目黒区の湿度との相関に有意差が5%見られたという。

ちょろとくねくねを比較してみると、くねくねのほうが単純に天気の影響を受けていると言える。

なかなか興味深い結果だった。

矢野経済研究所さん、ご協力ありがとう。






P


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[ 2019.08.07 | 猫日記 | コメント: 0 | PageTop↑ ]