早実のピッチャーのタオルが欲しいです。嘘です。
猫でーす。こんにちは。

間を開けてしまいましたね。ごめんなさい。
続きです。


死んだのは一人*だった。 産んだ子は三人で死んだのが一人だから生き残ったのは二人になる。一人はSが誰か引き渡した。それ以来会っていない。そして最後の一人が息子のカント。今も同居している。カントだけが白黒模様でほかの二人はキジトラだった。(*「一人」と書いても猫である。しかし「一猫」と書くのも「一匹」と書くのもまたは「一頭」と書くのも煩わしい。だから「一人」という数え方を了承願いたい)

どうして死んだのかをここに書くつもりはない。だが、わたしがこれを書いている理由のひとつにはなっている。喪失は創造を強要する。こともある。少なくともわたしにとってはそうだ。

話をちょっと逸らそう。わたしは人間を見ていて不思議に思うだけれど、人は猫を子供のように扱う。これは良し。分かる。だが、子供を子供として扱う。これは否。ちゃんと言うと子供を子供という一般化した「子供」というキャラクターに閉じ込めた存在として扱っている、と言いたいのだ。それがどうにも解せない。子供の世界は実に広く深い。そしてすべての大人はその世界を体験しているはずだ。なのに自分が大人になった後に子供に接するとき、多くの大人は子供を子供的な世界に限定し規定している。人間はわたしたちより時間の概念が広く過去と未来を持って生きている。歴史を研究し、未来を少しでも予見できる可能性を模索し続けている。にも関わらず大人は子供に対して不思議なほど想像力の欠けた接し方をしている。他人の子にも我が子にも。子を持つ親は、こういう意見を否定するだろう。だが、必ず「子供のくせに」「子供なんだから」と思うことがあるはずだ。あったはずだ。

子供はたった一日のうちに世界の果ての壁に触れ、地の底の冷たさを味わうことがある。絶望と希望を何度も往復する。実にタフな日々を送っている。だからぐっすりと眠るのだと思う。(猫ごときに何が分かるのか。そう言われるかもしれない。言われなければいいなと思う。)

実は猫にも同じように広く深い世界がある。人間のそれとはもちろん異なるが、その差異は知らないままで良い。知り得ないからだ。ただ広くて深い世界がこの小さな脳のうちにあるという事実は、親しい人間には知っていてもらいたいと、たまに思うだ。寒い朝、雨の午後、誰もいない夜中にふとそう思う。何年も一緒にいるのに「寂しかったのかにゃ?」などと言われると少し悲しい気持ちになる。そういうときはあくびで誤摩化す。でもまあ、ケセラセラで済ますとする。猫だし。

あの子が死んだあの朝は確かに小雨でケセラセラ