Night Watch



ご無沙汰しております。
ご無沙汰しすぎております。相も変わらずですが。

前回の日記の内容をすっかり忘れてしまったので(というか日記を書いていたことすら忘れていました)、読み返してみますと、なにやらキャラクターを模索する等と書いておりました。正直申しまして、何のことやらさっぱりでございます。そんなわけでそれはまたあらためて検討させていただくということでペンディングさせていただきとうございます。

誰に言うとも無く、こうして述べておりますとちょっとしたアルツハイマーにかかっているのではないかという自己嫌疑すらしてしまいそうですが、そう嫌疑も朝青龍のニュースとともに無視させていただこうかと思います。

兎に角(と書くたびに頭に角が生えたウサギの絵を描きたくなります)、今日もまた前回の流れとは関係なく今日書こうと思ったことを書こうと思う所存でございます。

暑すぎる夏の最中と真冬以外は比較的うちの居間の窓は開けておくのですが、そういう時期にはわたしは(ときに息子も)窓辺にて観察と聴察というものを行います。観察はご存知の通りの観察でございまして、窓から見えるもの見えそうなもの見える気がするものをのっぺりと観ることを指します。

先日も申したかも知れませんが、向かいの老婆はうちの外にまったく出てこないようです。わたしたちと同じように同居人に外に出ることを許されないでいるのかもしれません。軟禁とでも換言できそうですが、わたしのそれはちょっと違います。ですが、老婆に関しては推測の根拠となる情報がまったく入ってこないためわかりかねます。同じ家に住んでいる中年の男性、通称(といってもわたしと息子の間での通称なわけですが)ボリックが窓の外をぼんやりと歩いているときに、ちょっと声をかけてみたのですが、怪訝な顔でみられたきりで無視されてしまいました。ボリックとしても「うにゃー」としか聞こえなかったと思われますので、無視するのも無理からぬとは承知しております。ただ、なんらかのリアクションをいただければ、わたしも暇を使って老婆の身の上を推測することもできたであろうにと思うこともあるわけです。

そういったわけで、わたしは最近、猫らしからぬ鳴き声、「うわん」「ちょん」「みょん」「きゃん」「がおー」等の練習をしているのですが、同居人たちがその練習を耳にして「様子がおかしいから病院に連れて行こうか」等の相談をするようになってきたので残念ながら中止せざるを得なくなりました。

行動の変革というのは多大なる犠牲を要求するものです。その犠牲を厭わないか、厭うか。そこから変革の価値を推断することも可能であると気づきました。そして、わたしは鳴き声を変えてみるという変革は病院に連れて行かれるという犠牲に見合わないと判断いたしました。にゃー。


さて、話が長なりまして、結果わたしがいちばん今回みなさまにお伝えしたかった「聴察」という行為の内容と醍醐味について言及するには、紙面と体力とやる気が足りなくなってきたようです。

勝手ながら最後に東幹久の言葉を引用させていただき、筆を置かせていただこうと思います。

また、今夜。