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親子
2011.11.19
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私は息子と暮らしている。

息子と親が一緒にずっと暮らすということは、ヒト世界では、よくあることだがネコ世界はでは飼い猫界以外ではほぼない。特殊ではあるが異常ではなく、私達ネコは、大変合理的な生き物で、「頼れるものがいるなら頼る」という生き方を概ね選択するようにできている。ヒトと暮らせば、私たちは自分たちをそのヒトの子供的な位置でのアイデンティティを持つので、ヒトからご飯をもらったり、いろんな世話をしてもらうということがスムーズに取り交わされるようになる。私達が適度に甘えれば、ヒトは喜ぶし、私達にも大人になっていたとしても甘えられることに結構な充実感を感じることができる。

ネコ同士は、本来は子供が大人になるちょっと手前で親子は離れるようになっている。一人で生きていけるようになって貰わないといけないからだ。しかしヒトに飼われているいわば家猫環境にあるならば、その必要はないので、いつまでも仲良くしていて良い。「頼れるものがあるのであれば頼る」ので、息子は今でも私に過去に手痛く男に捨てられたトラウマのある女が新しい男をみつけたときのように、べったりとくっついてくる。

私たちは二猫いるので、身体の隅々まで舐められるのでけっこう助かる。家猫は一猫であることが多いようで、そうなるとちょっと不潔になりやすい。シャンプーとかヒトにされることになるようだがあれはあんまり猫的には馴染めないので、二猫で暮らせる、それも親子でってことはけっこうありがたかったりする。

それからなにより退屈しない。こっちがせっかく子猫的なアイデンティティをもって接しているのに、ヒトはヒトで忙しいと撫でたり、遊んだりという本当は重要なことを放棄しがちなところがある。余談だが、ヒトは見ていると相対的にではあるが、大切ではないことで日々追われるように慌ただしく生き、大切な事を後回しにしたり、ないがしろにしがちだ。そして大切なものを失ったときにテンプレートのように後悔する。低い視線ながら傍から見ていると、自らドラマをつくるために間違いを犯して悲劇を作っているのではないかと思うことがあるほどだ。そもそも悲劇を好んでいるようなところが、そのへんがとても不思議だ。

もっと普通に大切なことを、暖かい日は日向でぼーっとしたり、近しい存在と目的を持たずに触れ合ったり、何も考えないで過ごして光の粒子を不意にみたり、風の音を聞いたり、雨の日は布団のなかで遠くの光景を思い描きながら温かいままでいたり、そういうことを怠らなければ、生きていることに自信がもてるのに、などと思う。

そういう意味では、私達猫は、一所懸命にそういう行き方をしている。そとを眺めて揺れる木をずっとみながら過ごしたりすると、地球が回っている音のような、何かを感じることがある。それが何かの拠り所になるわけではない。だけれど、見えないけれど大切なものが世界の裏側にきちんとあることを思い出させるのだ。私たちはそれをじっと見つめようとすることもある。それをヒトはときどき笑う。笑うのはいいのだけれど、私はたまに伝えたくなる。私が見つめようとしているものは、あなたがたちにとっても同じように大事なことなんだと。


私には息子がいて、一緒に暮らしている。彼がいるおかげで寒い日も窓辺で暖かくすごせるし、耳の後ろも顎の下も綺麗にできる。見えないけれど大切なものというのは、そばに誰かがいると見つけやすいし確かめやすい。それに私は息子の匂いや毛の感触や鼻息が好きで、それが身近にあるととても落ち着く。

そういうことすべてがありがたい。

今日は寒い雨の日だ。それが私を苦しめることがないこの世界を私は大切に思う。

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