2012.02.13
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ポン・プルクワです。

のっけからずいぶんと暗い話をして申し訳なく思うのだけれど、クネクネの知っている人が北の地で自殺をしてしまったそうだ。雪の山奥で。私はその情景を想像して胸がきゅっとなるのを感じた。とても明るく面倒見の良い人だったとか重ねて聞くにつけ、なおさらに。同情してではなく、不条理に直面したときのような、納得のいかなさを含んだ思いによって。


クネクネ曰く、自殺のニュースは、他の自殺を誘発する傾向があるとか。だから、本来はこういうことを書くのは避けるべきだ。実際にクネクネは書かない。でも私はどうしても言いたいことがあるので書く。


死と零は人間の偉大なる発見である、というようなことを目か耳にしたことがある。たしかにそうだと思う。偉大かどうかは別にして。私が動物代表なわけではないので、人間ではない一個体の(という一猫の)視点から話になるが、私は「ないということ」を意識しない。他の猫も、そうじゃないかという気がする。だから死とか零とかいう無いという概念は人間にしか必要なものではないために、人間が発見したと言ってもいい。私にも死という知識はあっても概念は希薄だ。もちろん、例えば息子やクネクネやオデコの誰かやみんながいなくなったり死んでしまったとして私は何も感じないかと言えばそうではない。でも私はいないことを悲しむわけではなく、私は彼らに「会いたい」と強く思うことだろう。ホットカーペットの良い場所を取り合ったり、朝起こしたり、ご飯をねだったりすることで私は自分と自分以外のつながりを都度再確認している。ほぼ無意識に。それがなくなれば、ただただそれを欲し続けることになるだろう。諦めが訪れるまで。


何が言いたいのかと言えば、私は生きることしか考えないし、考えられないのだ。人間のように思考に余裕がない。恐怖はあっても不安がない。対象のないものを創りだすことをしない。私はたとえあと十分で死ぬとして、それを恐れるよりその間も生きることしか考えない。考えられない。


ショーペンハウエルの『自殺について』という本を読んだことがある。例によって読了できずじまいであったが。それによれば、キリスト教(というか当時の教会)では自殺を罪だと言っているが、人間くらい苦しむ生き物はいないのだから自ら死を選ぶことすら許されないとすればあまりに救いがないじゃないか。だから良しとしようではないか。というような内容だったはずだ。私自身も自殺を罪だとは思わない。罪という概念もヒト特有のものだけれど、ヒトは私にはない苦しみをいっぱい持っていそうなので、悪いことではないと私は思っている。


でも、だ。その余裕、死を恐れ、考えることができる余裕を使って、命を終わらすことがどうにも解せない。それは私が猫だからだろうか。私には生きることしか考えが及ばない。だから解せないのは当たり前である。でも、価値観や世界観をぱたんと切り替えるだけで、その余計なことばかり考えつくす余裕はいろんなこと生み出す力になるはずなのだ。それを惜しい思うのだ。


私から観た人間という生き物の性は、試行錯誤の開拓者のそれだ。倦むほどに同じ失敗を繰り返す。そして危機を創造したり想像したりを繰り返す。そういう危うい生き物だ。だからかなり間違ったことをする。というかいっぱい間違うようにできているように見える。間違いを重ねて覚えの悪い頭に何が間違いなのかを少しずつ叩きこんで生きているように思う。だからどんな失敗をしようともうなだれずに生きればいいのにと思うが、それにも個体差がでてくるのだろうか。なにせ無駄なことをするために発生したような生き物だ。致し方がないのだろう。


一方で、私は、そしてたぶん私以外の人間ではない生き物の全般もそうだと思うのだけれど、愚直に死ぬ直前まで生きることしか考えないで生きていく。


言いたいのは、余計なことを考えられるその余裕をもって、間違いばかりする性を自覚して、ぐずぐずしながらでも、生きろよ、ヒト。ということだ。自ら死を選ぶことも、犯す間違いの一つなのであろう。でも生きろよ。生きるということは、おまえが誰かに触れるということだ。誰かの手や顔にその手を触れるそれだけで、生きるということが成立するのだ。手がもしないなら目をみるだけでも良い。言葉を掛けるだけでも良い。何かをみて一人何かを感じるだけでも良い。


やっぱり上手く言えなかったけれど、生きることしか考えられない私の意見の押し付けだけれど、私はどうしても押し付けたかった。その持ちあわせた余裕を使ってくだらないことをいっぱい考え、私たちには出来ないことだが、いっぱい笑えばいいじゃないかと思うのだ。


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