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ポン・プルクワです。
綴りは暗記していません。


『猫語の教科書』という本をちろちろと読んでいる。ポール・ギャリコのほうではなくて、もっと新しめのやつ。猫との付き合いについていろいろと書いてある本である。ポール・ギャリコの方もみかけたから、うちのどこかにあるのだろうけれど、そういえばまだ読んでいない。しかし、こういう本を読むとヒトが猫を飼うのも猫を大切にするのも、そうすることで彼らが救われる何かがあるからなんだろうなということをひしひしと感じる。けっこうひしひしと。どうして自分たちはぜんぜん関係のない猫という生き物をヒトは大切にしようとするのだろうか。 それも生きているときだけでなく、死んだ後も死んだ猫のことをいつまでも思うのだろうか。


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推測するに、何かを救い、慈しみ、助けることで自分を肯定することのできる根拠を生み出そうとしているのではないだろうか。私が存在していたお陰で、私以外の何かが幸福であった、救われた、生き延びることができた、そういうことを成立させたいのではないか。そう思ったのだけれど、それならどうして、死んだ後も死んだ猫のことをいつまでも思うことがあったりするのだろうか。それは自分がその猫をちゃんと幸福にできたのかどうかということに自信が持てないからなのかもしれない。


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そう推測した上で、猫の私がどう思うのかといえば、生きている私は存分に大切にしてもらいたい、でも私が死んだら少しも自責することなく、自分か死んだ私以外を大切にして欲しいと思う。なぜなら、死んだ私はもういないから。私を十分に大切に出来なかったと後悔などしても、その思いは誰も何も救わないから。私は十分に愛されなくてもいい。愛という言葉は、ヒトの世界の言葉だけれど、ヒトが私をどう扱おうとも私は、心配ご無用、百パーセント全力で生きている。私は百パーセント好きだと思うヒトや時間を愛していきている。だから本当に何も心配しないで良い。


大切な何かが自分以外で存在しているとき、それは自分で創り上げたものだと、私は思う。恋人だろうが友人だろうが、親だろうが子だろうが。その時点で、その生涯はもうすでに合格しているように思う。その大切なものを大切にできたかどうかということは、おまけみたいなものだ。上手く言えないのだけれど、私はよく撫でられながら「長生きしろよ」と言われるのだけれど、生きている意味は、その撫でられている瞬間に生まれている。大丈夫なのだ。あなたが大切に思う何かに大切に思いながら触れることがあったとしたら、もうそれで大丈夫なのだ。後悔は罪だ。生きろ。私が今そうしているみたいに生きて欲しい。お腹をすかせてご飯を食べて欲しい。ゆっくりと寝て欲しい。したいことをしようとしながら生きて欲しい。したいことがなくても苦しまないで生きて欲しい。


これは私が好きなヒトに向けたメッセージだ。




[ 2012.04.08 | 猫日記 | コメント: 1 | PageTop↑ ]