しつ
2012.06.07
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PP。

猫としての発言としてはあるまじきことであるが、私は最近具合が悪い。なんだか怠いし、うんこがなかなか出にくい。うちのトイレは狭いから、もう嫌になっちゃって、そこいらに草のような絨毯があるし、なんか気分は野外? みたいになれないこともないから、そこでようやく出せたりするも、クネクネが掃除を大変そうにしているし、習慣から逸脱しているしで、心苦しくは思っている。食べ物が変わると具合が少しよくなった気がしないでもないが、体調がなんだか良くないことにはかわりがない。だからクネクネになるべくくっついて安心したいところだが、彼はずっとパソコンに向かっているので、隠れ家に隠れていると心配したクネクネが見つけて、ようやく撫でてくれたりなんだりしてくれる。

息子も私が寝ていると、側に来て身体のどこかを私にくっつけて横になる。寝ているわけでもないから彼なりの心配りなのかもしれない。 こうして程度の差こそあれ、私は同居している身近な存在たちに優しくされている。

私は、本やドラマや史実に目を通して出した優しさについての結論は、生き延びるには最優先される特性ではないというものだ。こと生き延びる、英語にはoutliveという単語があって、なんと〜より生き延びる、という他動詞なのだが、まさにこの言葉の持つニュアンスが、生き延びるということの本質を表しているのだけれど、「何かより」生き延びるということに関して、優しいか否かということは、必要とされる資質としてはベスト3くらいからは漏れていると私は思う。

しかし「いかに生きるか」ということに関しては、余裕でベスト3に入るものであるとも思う。今回の総選挙で言えば、マリコ様より上位になる。つまりとても重要なことだ。なぜなら私は明日死ぬとして、それまでの私の生の質を秒刻みで良質なものにしているのは、息子やクネクネの温もりであるからだ。ネットを介してもまだ見ぬ人たちからもご飯を送ってもらったり優しい言葉もいただいたりしている。私は人間と違って、自分の人生が豊かか否かということに関心はない。そもそも「人」ではないから人生とも言えないのだが、もう猫生と言い直すのも面倒だから言わない。

しかし何と言えばいいのだろうか。自分以外の存在と繋がりのある日々を送り続けて、彼らのことを私は好きで、彼らもまた大事に思っていてという関係は、それそのものがとてもかけがいのないものである。それがいつか終わるということはまったく問題ではない。少なくとも私には、そうであって、なぜならば、私には未来はそれほど価値のあるものではなく、私にとって価値あるものとはそのほとんどが今であるからだ。それと少しの過去も含む。

だから「ちょっと待って」という言葉は嫌いである。

また具合が良くなるといいな。そうすればクネクネも息子も元気になるだろうから。クネクネは何かで私たちの眉間を撫でると猫は寿命が伸びるみたいな迷信くさいものを読んで以降、ほぼ毎日気がつくと私達の眉間を撫でる。そしていつも少し悲しそうな目で私たちを見る。それが少し嫌である。私たちがいなくなる未来を、今生きている私たちの向こうに見ないで欲しい。今の私を撫でて欲しい。



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