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まさかあのうんこが、その後私のにゃん生を大きく変えることになるとは、露程も思いませんでした。

という書き出しを一度してみたかった、今日は、ポン・プルクワです。



今日はちょっと具合がそんなに良くなくって、どこがどう悪いっていうのもうまいこと分からないままでいるだが、具合が悪くなってみて、気づいたことがある。にゃん生(人生)についてのことだ。私が病気や怪我をしたとして、ヒトがまっさきに思いつくのは「病院」である。次に直面する問題は、どういう状態なのか、治るのか治らないのか、という専門医の判断がどのようなものなのかということのようである。その次には、どんな結果にしろ、事実をどう受け止めるべきなのか、という問題になってくるのであろう。一方、猫である私たちは、どうかと言えば、まず私たちの概念には、基本的にも応用したとしてもほぼ「医療」という概念がない。ない。ついでにいうと「病気」ということも具体的にはよくわかっていないかもしれない。私たちのにゃん生観(人生観)は、以前にも言葉にしたことがあったかもしれないが、「生きる」ということにしか考えが及ばない。だから、具合が悪いと「治れー、治れー!」と願いながら、身を隠して休むも、病院に行って治そう!とは考えない。そういう寄り道に馴染みがないのだろう。あそこに私たちを連れて行くのは人間である。私たち自身が赴くことはない。






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それは、果たして知識の問題なのだろうか。私たちが、病院に行けば、具合がよくなって元気になる、ということを理解すれば、みな病院に行って治療してもらおうとするのだろうか。それはないだろう。なぜか。ごめん、やっぱりそれ、理解の問題なのかもしれない。具合が悪い→病院で原因を突き止め治す→元気になる。これの真ん中がいつまで理解できないからかも。「医療」を作り、それが生活のなかにあるのは人間だけだからだろう。私は、知っているが、身体がついていかない。ついつい誰にも見られそうもない場所に身を隠して、治れー! 治れー!と念じて過ごしてしまう。「あ、ちょっと動物病院に予約の電話いれてくれる? 消化器系かなぁちょっと弱っているっぽいし、体温も低いみたいなの。抗生物質をもらって、あとは余裕があれば血液検査して内蔵等の疾患の気配がないかどうか見てもらうか。しんどいけど、帰ったらシーバでも食べて、動機付けとしよーっと。さ、いくで!」とは思えないのよ。(長かったな、たとえ。)



言いたいのは、私が病院に行きたくないという話ではなく、猫の人生観のなかに病院に行って治療する、ということは含まれることがないということ。しかし好きなヒトに側にいてもらって、いっぱい撫でて欲しい、ということは大いに含まれているということである。ヒトの人生観や文化や概念が理解できないからといって、私たちとヒトが関われないということではない。すごく簡単に、触れて、触れられて、その瞬間に私たちの生命はたやすく交差しているのだ。


? なんかちゃんと首尾一貫していた? かしら? まあ撫でてほしーにゃん!っていうことよ。




[ 2012.07.10 | 猫日記 | コメント: 1 | PageTop↑ ]