おまけ
2012.09.28
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ポン・プルクワである。猫であり、母である。

『ねこのきもち』という雑誌があるようだ。ヒトが猫の気持ちを知ろうとする姿勢が伺えて正直嬉しい。しかし、思うのだが、「ひとのきもち」という雑誌もあれば助かるな。いや、そもそもなぜないのかと。なぜなら、ヒトほど思いの交差している生き物ってあんまりいないように思うから。しかしヒトが『ひとのきもち』を読んでも、誰かのきもちをちゃんと理解できるようになるわけではないのだろう。笑っちゃうほど(私は笑えない身体である)当たり前の話だけれど、気持ちはヒトそれぞれだから、都度それらを理解しないといけないし、その「都度」を全部網羅することなどはできまい。



わたしたち猫の世界には、ヒトほど複雑な事柄のやりとりがないし、言葉でのやりとりも本来はない。だから、誤解というものがヒトのそれよりずっと少ない。無いといっても良い。ニュアンスでことを済ましている。ヒトでいうところの阿吽である。ハラ減ったよねーとか、舐めてあげよーかーとか、寒いからくっつくかとか、そういうことを態度で示して、同意や反意を知る。しかしヒトは言葉があるから、それで、いっぱい誤解する。正確に思いを言葉にすることすらままならないのに、その上正確に理解してもらえるかだって頼りないのだから。





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言葉はとてもおもしろい。言葉のおかげで、私は対象ひとつにのみ伝えるという「ニュアンス」を超えて、多くの誰かに伝える表現方法を知った。これはとても私にとっては驚きの進化である。とても楽しい。しかし、私は自分の同居ヒトであるくねくねが多くヒトたちと関わってきた姿をみて、思うのだが、二人であるならば、せめてパートナーには言葉ではないコミュニケーションを取ることも大切だと強く思う。私たちにしているように、何を考え、求めているのかを尋ねるのではなく、察しようと努める、ということをヒトにだってしたらいいと思うだ。


知識は大事である。私たちがどうして高いところに登るのか、隠れるのか、新聞の上にのるのか、そういうことを知識としてしってもらうのは、相互理解にとても役に立っている。しかし、中心にあるのは、言葉や知識ではない阿吽領域のやりとりであり、それは相手を知ろうとする努力であるから、言い換えるなら、きっと愛なんだと思う。そういうことを思うに至る経緯に、私はヒトと暮らしてきたということがあって、それはとても良いことだった。何を言ってもちゃんと理解しないくせに、わかろうわかろうと10年以上も努めてくれている。だから私も彼らを理解しようとしてきた。ちゃんと理解できているかどうかは、おまけみたいなものだろう。



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