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眼の調子が悪いし、便秘ぎみである。としなのであろう。人間であれば、憂うところであろう。しかし私は猫。憂うことなくただ単に嫌だなと思うだけである。憂うことと嫌だなと思うことにどれだけの差があるのか、書いてみてからわからなくなった。こんなときは漫画でも読みたい。『宇宙兄弟』の19巻が今日発売のはずである。買ってきて欲しい。しかしまだなので、あ、わたくし、猫のポン・プルクワである。雌である。それで、しかし『宇宙兄弟』はまだないので代わりに『プラネテス』という漫画を読んだ。目がしんどいので最終巻だけ読んだ。以前にも読んでいるので、さらさらと。

その漫画で「愛を気安く口にするな」と言いうセリフがあった。が、どうだろうかと思う。愛はそんな奉る類のものであろうか。猫には愛という概念がそれほどない。猫は単純に生きるだけである。それほど深くいろいろと考えない。その場その場で判断して、生きるだけである。家に住む身としては決断を迫られるような状況は正直そうはない。ここで寝ようか、あそこで寝ようか。そろそろご飯を催促しようか、もうすこし待ってみるか、くらいである。愛に関しても、これが愛か否かなど、考えるわけもない。そんなことを考えるのは脳が暇な人間くらいである。そんなお脳の暇な人間と暮らし、はたから見ていて、思うのだが、ヒトはヒトが思うより随分立派な生き物であるということなのだけれど、それは以前にも書いたので割愛する。今日はまあ愛について少し語ってみたい。簡潔に。




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愛というは、単に自分以外の個体を大切にしようとする思いと行為であろう。でもヒトは疑いぶかいから、自分の行為が自分のためなのか相手のためなのか迷い時に苦しむ。しかし私から見て思うのは、そんなことどちらでも良いだろうと。私が息子を舐めて、毛づくろいをする、その行為に意味などはない。したいからしている。しかし結果それはヒトの言うところの愛に含まれるはずである。かようにして、愛などはテレビをつけたらくりいむしちゅーが出ているほど頻繁に日常に現れるものである。それを気安く口にして悪いはずがない。ドラマも映画もフィクションはいつだって、何かを失うかもしれない不安に満ちているのだけれど、私から見るヒトの社会の世界は、気安く語れるほどに愛にみちている。

人工というと、そこには合理化というニュアンスが含まれているように思うが、ヒトのつくりだした世界は、自分以外のヒトにたいしての思いやら何やらでみちみちている。しかしまあ、にもかかわらずああでもないこうでもないと逡巡していればいい。ゲーテの「星のごとく 急がず 休まず 人はみな 己が負い目のまわりをめぐれ」とはよく言ったものである。

素敵なことである。

[ 2012.10.23 | 猫日記 | コメント: 0 | PageTop↑ ]