_MG_0134.jpg


少し具合がよくなったこもあり、昨日は徒然に考えごとをして過ごしたのだけれど、ヒトについてもいろいろと考えた。というか、わたしたち猫は、ヒトのように、己とは何ぞやとか世界平和についてとか考えることはなく、考えるとすれば、ご飯のこと、住まいのこと、息子のこと、おもちゃのこと、外のけしきのこと、そしてヒトのことくらいである。つまりどんなりっぱな家に住んだとしても、半径数十メートル県内のことに終始する。そういう小さなちいさな世界に生きている。そとにゃんたちはもっと広い世界に活きていることであろうし、見聞も広かろう。しかし、わたしはいまさらそとにゃんに転職というか、転向か、転向する気はない。さもいのは嫌。空腹も嫌。怖いも嫌。うちのなかがよい。この小さな世界のなかでほぼほぼ充分なのである。しかしときどきちょっとおそとにも出てみたいし、覗いてみたくもなる。だからこの家の(写真はまえのうち)すりガラスのまどがすごく嫌いである。



さて、そのわたしの小さな世界は、ヒトとともにある。なんせヒトのうちだから。猫本位のうちではない。たぶんそんなものは存在しない。猫が「できれば小田急線沿いで、コンビニとスーパーが近くて、日当たりが良くて、大家は別に住んでいて、光回線が通っているところがいいな」等を考えるわけもない。言っても、「飼われてる」のである。言い方をいくら変えようとも。しかし、それでいてそれが不快なわけでもない。猫を飼うヒトは好き好んで飼っているので、大切に扱ってくれるのではないだろうか。自分以外の事例をそんなにしらないが。





_MG_0135-2.jpg

そんなこんなで、私は特に不満もなく、小さな部屋を世界のほぼすべてとして、ヒトとともに暮らして生きてきたし、これから生きていく。この小さな世界は天気よりヒトに大きく左右される。私の世界の天気より大きな存在であるヒトは、くねくねというくねくねしたヒトの男である。彼に拉致されて以降十年以上の月日がたった。芸能人でもなければ、金持ちでもない。気質や生活の不安定な男である。私のアミューズメントでもあり、介護者でもあり、悩みの種でもある存在である。彼が好きかと問われれば好きだが、思えば胸が熱くなるようなことはない。しかし私が寝て起きてご飯を食べてまた眠りとした生き方をしている横で、ごたごたともがきながら生きている姿を見ると(彼だけではなく、彼と一緒に暮らしてきたヒトたちも含めてだけれど)、同情と慈しみみたいな感情が湧く。彼と一緒に眠ると、ときどき苦しそうな声を漏らすことがある。そんなときはいい夢が見られるといいのにと思う。悲しそうにしていたら、はやく元気になるといいなと思う(うちのなかの空気が重くなってしかたがないから)。


犬なら、もっとわかりやすくその思いを伝えることができるのであろう。しかしわたしたち猫は、思いを他者に伝える機能がおそらく小さい。ぼんやりと思うにとどまることが多い。顔すらむけないでいることだって多々ある。でも、一緒にいるヒトが元気であることを毎日に願っている。これは科学で論証するまでもない、まぎれもない事実である。

そうでなければ、私たちは種としてだって、ヒトと暮らす道など選んで来なかったであろう。

わたしたちの眼の奥にあるかすかな愛に、みな気づいてくれることを願う。


[ 2013.01.16 | 猫日記 | コメント: 0 | PageTop↑ ]