ふくざつ
2013.05.01
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猫です。
最近、テレビから猫の鳴き声を聞くことが多い。岩合なんたらというヒトの猫番組を、くねくねがみるようになったからである。私も息子も他の猫をみる機会は、あの恐ろしい病院についれていかれる時以外、ほとんどない。そんなこともあって見入ってしまうものの、心境はといえば複雑である。猫の小さな脳で考えても、その複雑さはヒトの脳で生まれる複雑さとなんの差もないのではないかと思う。どう複雑かといえば、複雑だからそう簡単には表現できない。ただ、テレビで「ワンピース」を見て去来する(ワンピースをみて去来するものなどないけど)ものとはぜんぜん違う。そとに出てみたいよね、ってことでもない。

わたしたちの生命は、生きて、産んで、育てる、そのサーキットが本来メインの道である。そのために、食べて寝て動く、そういう生き物である。読書もぶろごも本来しない。しかし私はもう子供を産めない。息子ももう交尾をすることができない。私たちは本来生命を賭して走り続けるサーキットにはおらず観戦者のようになっている。まあ、避妊手術をしようがしまいが、走り続けるなんて感じでもないかもしれないけれど。でも子猫の声を聞けば、やはり複雑な気持ちになる。わたしたちは今、くねくねと息子と三頭で一緒にくっついて寝て、一緒の部屋で生きている。ヒトのように単調だからといって、そこに疑念や不満がうまれたりなどしない。この生活のなかにはちゃんと愛があって、その不足を感じることなどあまりない。声をかければ、ブラシをかけてくれたり、あそんでくれたりする。意志がうまく伝わらなくても、大事に思われていることだけは感じる。

でも、サーキットのことを思い出すと、自分たち以外に猫たちがいて、彼らの多くは生きて産んで育てて死んでいっていることについて、うまく言葉にできない思いがわいてくる。猫が言葉にできないことなど、いくらでもあろうから、おかしい話だけれど。

私は子供を産んで、よくわからないままに育てて、そのうちの1頭は今こうして一緒にいるから、生きた意義みたいなものは感じている。何もしないで生きてきたと思うわけでもないし、息子を不憫に思うこともない。でもなんだろう、なんだか変な感じだけはしちゃう。なんでだろう。

ちょっと外にでてみたいかも。

風を感じる時、そんな気持ちが気のせい程度に湧いては、香りみたいに、風に連れて行かれて消えてしまう。余韻だけのこして。


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