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あたしは、猫で、飼い主によると今日でいっしょになって18年目なのだそうだ。

あたしの名まえは、ポン・プルクワという。

あたしは、ぐあいがとても悪くて、なるべくうごかないようにしている。

どんなぐあいの悪さかというと、うんこが汁になってでて、きもちがわるいし、うまくトレイでできないこともままある。からだのなかがいろいろ痛くてじっとしているのもつらい。食欲はわくが、たべるとつらくなるので少しずつしかたべたくない。よろけるがしかいは良好。痛いのもあってうまくねつけない。

だいたいこんなあんばいである。

あたしには、飼い主が現在ふたりいて、ひとりは18年まえに外で暮らしていたあたしを拉致した、くねくね(オス)。そのくねくねと一緒にいま暮らしていて、かわいいかおと声なのに、犬二頭をわがやに連れ込んだおそるべきメス、ちょろ。

犬たちには、もうなれたが最初はなにがおこったのかわからない混乱が発生したものだった。

その飼い主である家人たちのようすは、とくにかわりがないが、あたしのそばで過ごす時間が少し増えた感はある。ちょろは、先日、あたしの横で泣いていた。くねくねは、泣かないし、悲しい匂いもあまりださない。ただ、あたしのそばに来ては、もうたぶん何千回になるだろうが、あたしの眉間を何度も撫でていく。眉間を撫でると長生きする、とかそんな話を勝手に信じ続けているのである。

あたしにだけではなく、犬たちにも、ときおりならちょろにも眉間を撫でている。

彼らの様子をみるにつけ、またあたしの体調の具合からみても、あたしはどうも死に近づいているようである。あたしの息子もずいぶんまえに近い感じになって死んでいったので、きっとあんまりまちがっていない。

こうやってブロゴを書くのもさいごかもしれない。

あたしがいまどういう心持ちなのか、ということといままでこれを読んでくれてきたひとたちにむけて思うところのことを少しでもかければと思っている。でも、それが感動的な感じになるなんてことはほしょうできない。

あたしは、いま、生きてきた18年以上(たぶん19年くらいなのかな)を思い返して、「いろいろあったなぁ」と思っているいえば、そうではない。なにもおもいかえしていない。ただただ生きることだけを考えている。もちろん「ああ、たぶん死ぬなー」とは感じている。それでも、「それはおいておいて生きるぞ」と考えている。あとは「いたいなー」とか「しんどいなー」ということだけである。

あたしじしんが、勘違いしていたのは、もう子どもを産めないから、そのかわりに何かを残したい!という動機だった。それがこのブロゴをはじめた理由だったが、あたしのなかには、そんな「何かを残したい」という思いはとくになかった。空虚なになにかはあった。だからこうやって人の言葉を使って、人にむけてブロゴを書いたことで、そして挙げ句、本までしっぱんできたことで、満たされた部分はあった。すごく。

その結果、あったこともない人たちから応援されたり、話しかけられたりしたことも、とてもおもしろかった。

ただ今思うに、あたしがしたいのは、何を残すことでもなく、もうたんじゅんに生きるってことなんだということである。

死ぬ前にあれがしたい、これが食べたい、ということでもない。そういうのは、生命の有限性を意識する人間風のかんがえである。あたしは、もっとシンプルである。

ただただ生きる、ということにつきる。

だから、ニートと呼ばれて、働かずにただ生きている人のことを人は問題視することがあるようだが、それに近い。それに意味があるのか?と問われれば、意味があるかどうかを考える理由がわからない。ごはんを食べるのに、撫でてほしくて撫でてもらうことに、触れられて安心することに、眠ることに、窓の外から入ってくる風の匂いをかぐことに、さて意味はあるのだろうか。あったところで、あたしには関係がない。あたしは、すごく単純に生きるために生きてきたし、今も生きている。死ぬまでにしたいことは、生きることである。

家人たちは、苦しむあたしが開放されるならと、いくぶんあたしの死を待つ気持ちをあるようにみえる。ただ、あたしにはそういうきもちはないし、しだいにそれに気づいてか、哀れんだり、かなしんだりせずに、ただただもくもくとあたしとともに生きている姿勢に転換したようである。そういうのを、猫のあたしは、匂いとして感じる。


いっぽうで、家人たちは、生きるということがなぜか辛く感じるという気質というか傾向を持っている。いや、持っていたと言い直しても良いかしら。最近、かわってきたようでもある。それでも、特にくねくねだが、彼は、あたしと生きているあいだ、常にとまではいわないが、しばしば生きていることに苦しんでいたようである。それをかたわらでみていて、理解できないままに気の毒に思ってきた。だから一緒にねてやったり、舐めてやったりしたのだけれど、それが功を奏したのかはわからない。

不思議である。五体満足でご飯を食べて寝てまた起きてってことで満点のはずなのに、苦しむのって、自分の尻尾を痛いのに強く噛むようなものである。長年の謎であった。

ただ、そんなくねくねが最近、少しずつ苦しまなくなってきた。また、いっぽうでちょろはちょろで、彼女も五体満足なのに上手く生きていけない気配みたいものを自分でまとって自分で苦しんでいた感がある。それが日々溶解していってかわってきているようである。つまるところ、人が子を産まないのにつがいになる理由というのは、こういうことなのかもしれない。それは良いことに思う。

生きることの意味、というものについて、人はとかく悩み探し求めるが、そんなものはない。というか興味がわかない。動く紐のほうがよっぽど興味深い。

ただ、人と暮らすのは嬉しい気持ちがよく湧く。留守にされてしばらくしてから家人たちが戻ってきた音は嬉しい。ご飯を出してくれるのも嬉しい。撫でられるのも嬉しい。かれらのいびきも嬉しい。そして逆もあるみたいで、彼らはあたしが生きていることの一挙手一投足を嬉しがっている。ライ麦畑とかいう話にでてくるレシプロケイトということばを思い出す。

あげたりもらったりする関係という意味だった気がする。

それにだって意味があるかどうかしらない。意味はしらないが、嬉しい。みんな嬉しい。

だから強いて言うならば、この嬉しいを何度も何度も感じられることに満足を覚える。それは言い換えれば、しあわせと呼べるのだと思う。

体中が痛いいまでも、家人があたしのそばにくるだけで嬉しい。そしてみみのうしろを撫でたり、眉間を撫でたりしていくのも嬉しい。そのとき、彼らが発する匂いを感じるも嬉しいし、ときどき寂しい。

生きている意味なんてしらないが、生きていて楽しいのだから、生きている理由はばっちりある。

生きている理由は、生きたいから、生きているから、そして嬉しいを与えあえるから。

せかいにあたしひとりでもあたしは生きていくだろうが、げんじつには、あたしは、家人たちと暮らしていて、かれらの匂いや指や音があってうれしい。かれらもあたしの音や匂いや動きやこえを嬉しいようである。それは良いことだろう。

いろいろなことを知ってきた。世界はすごく広くてしかも広がり続けているそうだ。だけど、生きるということはシンプルだ。生きる。そして嬉しいのが良い。

あたしは、このブロゴを通して、猫風ではなくって、1猫の考えを伝えたく思ってきた。ツンデレもでないし、語尾にニャアをつけているつもりもない。テオテニーしているつもりもない。普通に生きて、日々、人の(っていうかほとんどくねくねとちょろ)不可思議な行動をおもしろく思ってきただけである。息子が生きていたときには、もう少し理解しやすい安堵があったが、それも嬉しかったが、失っても、不在に慣れた。

外の世界も少しは探検した。

体中痛いままだし、具合も悪い。戦況は悪化している、といった感じである。それでも、あたしは生きていて、少しうれしい。

死ぬ前になにかメッセージを、という思いでこれを書いたわけではない。齟齬がないようにしたかった。あたしは、生きていることを今このときも嬉しく思っているということを伝えたかったのだと思う。先日知ったのだけれど、閉じ込め症候群という動けないけど生きている人間が何を考えているのかわかったというニュースがあった。その人の言葉は「生きていることが嬉しい」というものだった。あたしはその人に共感する。

あたしは、毎日嬉しい。死ぬまできっと嬉しい。

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[ 2019.09.11 | 猫日記 | コメント: 1 | PageTop↑ ]