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あたしは猫なので、自分で写真を撮ることができない。撮られた写真があるフォルダをみて、新しく入れられている写真の中から適当に選んでぶろごに使っている。新しいのがないと古いのからみつけて使う。でもまあたいてい新しいのが数枚入っている。その辺はヒトの作業だが意外に抜かりがない。で、今日フォルダを開いてみると新しく入れられた写真が、ずいぶんと前のものだった。

霧の奥を探すようにしてそれが以前住んでいたうちの模様だということを少しずつ思い出してきた。なにせあたしたち猫の記憶は音や匂いのもののほうが多いし、以前のことは生きるのにそれほど必要じゃないから忘れてしまっている。それに写真はヒトの目線だから、あたしが見ていた光景と結構違う。だから、思い出すのはとても大変。

この頃、あたしと息子はくねくねの他のもう一人のヒトと暮らしていたはずである。そのヒトとはいまでもフェイシャルブックでつながっているので、忘れはしないが、どんな日々だったのかはあまり定かじゃなくなっている。断片的なものだけがふんにゃりと浮かんでは消えていくから、少し浮かんできたものをちらちら書いてとどめてみたい。

車の音がずっとする場所だった。いつも話し声がした。ヒトの客がひっきりなしだった。くねくねはバカで、もうひとりのヒトはあるときからずっと悲しんでいた。悲しんでいるのに、ぜんぜん気づかないくねくねだった。あたしたちからしたら、部屋中にそのヒトの悲しみの匂いで溢れているのにと、なんて鈍感なヒトなのだろうか、とあきれて、ときどきいらいらするほどだった。その悲しみと無知がときどき衝突した。そういえば、もう最近ではヒトとヒトが何か大きな声で言い合うのをもうまったく聞かなくなった。あのときはヒトの匂いが二種類あって、不思議とそれに馴染んで心が落ち着いた。今と比べてみるととても賑やかだった。

けっこう思い出せた。

思い出してみて思うが、ヒトは大変だなと。忙しそうである。あたしたちは悲しいという思いはあまりしない。寂しいという思いはする。思うに失うものが少ないのだろう。くねくねがいなくなったら、あたしたちの世界はもう終わりみたいなことになるのかもしれないし、あたしのなかにある存在は彼以外息子だけである。持っている動く不動産の塔も突然ヒトの都合でなくなることを知ったので寄る辺とはならない。し、持っている気持ちも本当はしない。

記憶の中を探るということなど、あたしたち猫は普段することなどない。写真を見てたまたまやってみたのだが、どうだろう、「あじ」のあるものだと感じた。かつてあったのにもうないもの、かつていたのにもういないヒト。あたしたちの中には普段ない悲しみという感情がより理解できる気がしてくる。忘れていたことを思い出すことそれ自体はなかなか「あじ」がある。それは台所の片隅にかりかりがひとつぶ落ちているのを見つけたときみたいな気持ちに近い。「こんなところにあったのか」と思いながら、あたしはかりかりする。埃とかついてて今ひとつなんだけど、ちょっと得した気持ちにはある。




[ 2014.05.07 | 猫日記 | コメント: 0 | PageTop↑ ]

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