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あたしは猫である。

百田尚樹という作家がテレビで、文は短いほうが読みやすいと言っていた。真似をしてみようか思う。あたしが今住んでいる街は代々木上原の大山町というところだ。はるか昔は新浦安という海の見えるところに住んでいた。そこであたしはヒトに連れ去られて以来、ずっとヒトと住んでいる。海を見たのはヒトと住んでからの話。ただ空とはあまり区別がつかなかったし、さして興味もないかった。それから違う街に何度か住んで今は大山町である。この街では窓からみていても猫をまったくみかけない。猫喰いばあばがいるからだ。猫喰いばあばが良い匂いをだして片っ端から猫を吸い取っているのだ。あたしも息子もそんな猫喰いばあばを見てみたいと思っている。これがあの有名な格言のあれだ。好奇心が猫を殺すというあれだ。しかしそとに出る機会がないからまだ生きている。幸い。

方南町という街では住んでいるうちの窓のすぐ側をアウトドア派の猫がよく通ったものだった。窓の側を通らずとも窓からそとを眺めているとさまざまな猫を目にしたものだった。彼らの生活を想像するのはなかなかおもしろいものだった。道すがら偶然に向井理にあって一緒に住むことになる。鮭がいっぱい降ってくる(映画で魚がときどき降ってくることを知ったのだ)。雨が降ってきたらどこかに隠れる。喧嘩。交尾。もろもろ。日々ドラマであろう。そういえばあたしも昔いっときアウトドア派だったはずである。でも記憶のなかのアウトドアはドラマによって彩りの多きものではなく、寒さと寂しさと怖さでいっぱいだった。たしかヒトに捨てられたのだ。そうして慣れるか死ぬかする前に違うヒトに拉致られてなうである。

アウトドア派の寿命は4年とか6年とか言われており、いっぽうで家でヒトとともに暮らすねこは15年ほどは生きるのだとか。寿命の長さが生命の価値を決めるわけでもなかろう。それにあたしはそもそも生命の価値を問う意識などない。食べて安心して子どもをいっぱい産んで育てる。それだけであった。ではそれができないからと言って生きていたくないかと言えば無論そんなことはない。生きる。何のために? ヒトならそう問うだろうか。そんなことはぜんぜん考えられない。

でも不安も寂寥もそれを打ち消してくれる誰がいるとその度に小さく救われる。そんなとき自分のなかの鼓動が聞こえてくる気がする。呼んでなくても息子があたしにくっついて寝る。呼べばくねくねがため息を付きながら飛んできてあたしを撫で回すか遊んでくれる。

アウトドア派にはドラマがあるかもしれないが、インドア派のあたしにもけっこうドラマがあるのかもしれない。うまくいえないが。それにしても毛がまだ抜ける。




[ 2014.06.11 | 猫日記 | コメント: 0 | PageTop↑ ]

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