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母猫のポン・プルクワです。
息子のカントとヒトの「くねくね」と「ちょろ」、それからわんこ2つと暮らしています。
あたしがリーダー。


 あたしたちを知るヒトたちは、いま具合の悪い息子をずいぶんと心配してくれている。しかし、あたしたち猫は、たぶん本来ひとりで生きて死ぬことが普通の生き物である。あたしは、ヒトや息子と暮らしてしかいないので、あくまで感覚としての話になるのだけれど。具合の悪い息子に対してあたしが抱く感覚とヒトビトのそれとはずいぶんと異なることだろう。具合の悪い自分自身に対してもである。

 ヒトには医療があり、ヒトがヒトを救うということがありうる世界のなかにいる。そうか、だからでろうか。ヒトは関わる誰かヒトが死んだあと、ずいぶんと深く、そして長い間苦しむ。そこには「なにか出来たはず」という過去にあったかもしれない可能性の影に苦しむのかもしれない。ヒトにはできることが多く、未来も過去も深いため、他者の生死が決定的に大きなものになるのだろう。他者を救うという感覚のあるヒトは、そのぶん苦しむこともあるというのは、皮肉なものである。しかし皮肉というよりは代償か。

 あたしが、息子にしてあげられることはなんだろうと考えを巡らすことは正直それほどない。寒いから寄り添って、親しいから舐めたり、舐められたりしている。寄り添って寝ると息子の鼓動を感じる。それにあたしはほっとする。あたしにとってはそれは世界の動く音である。くねくねの寝息もまたそうである。あたしは例外的に他者たちと生き続け、それが世界となっている今、彼らの息遣いや鼓動は世界の音である。しかし根っこのほうで、あたしの世界は、他者のぬくもりを前提としてない。あたしが死ぬときは死ぬときであり、他者が死ぬときもまた致し方のないことである。あたしは息子が死んでも悲嘆にくれて、数日数ヶ月と過ごすことはない。そんな暇がないのである。しかし寂しくは思うことだろう。喪失も感じることだろう。一人で眠る時、今までとは違うと感じるだろうし、それが息子の喪失からくるものであることに気づくであろう。

 それでもあたしは生きる。できることなら元気に生きる。あたしに他者を救うという意識はない。一生懸命に生きることの他できることはない。

 もちろん息子はまだ生きているし、一緒に眠ったり、起きたり、ご飯を食べたりしている。息子の死について考えるなんて時期尚早であるかもしれない。しかし一人で生きて死ぬ猫のあたしでも、予感として死を感じると、息子にふれて感じる体温に意識が強く向く。彼とともに開いた窓から入り込む冷気と匂い、そして音を感じる。刹那、時を感じ得る。

 死ぬことを前提として言うが、生きているというのは素晴らしいことである。たとえ子供を産み育てるという猫として本来もっているべき使命を果たすことが出来なくなっていようとも。遺伝子を伝え広められなくとも。生物学的に意味のない存在だとしても。匂いを感じ、音を聞き、息子の首を舐め、くねくねに耳のうしろを掻いてもらい、チッキンからかつおぶしの匂いがしたら寄ってみて、ちょろからちょっともらって食べる。犬に怒って、トイレにいって、くねくねにクレームをいれてあそんでもらう。そういうこと全部心地が良い。この上なく。

 生きるというのは、ほんと良いものである。そこまで考えて思うのだが、ほんとうは自分と関わりなく生きていくはずだった成猫になった息子の生命を愛おしく思う。

良い。




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[ 2015.01.21 | 猫日記 | コメント: 0 | PageTop↑ ]

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