だいしょう
2015.04.03
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母猫のポン・プルクワです。
息子のカントとヒトの「くねくね」と「ちょろ」、それからわんこ2つと暮らしています。


うちにはわんこが二頭いて、小さいのと小さくないやつで、小さくないほうの名を「もも」という。ももは、日に何度か、くねくねの部屋を訪れて、くねくねがいるかどうか確認してから居間へ戻っていく。あたしが犬に共感するのは、ヒトへの愛着心である。行動の多くを理解できないでいるが、寂しいとか、かまって欲しいとか、好き、という感情の部分は理解できる。ヒトはネガティブな感情のほうが共感しやすいと聞く。フェイシャルブックをみていても、何かを批判する投稿に、多くのコメントがついている。例えば、先日あった子猫を埋める事件だとか。

ヒトというのは、面白い生き物で、他の生き物を虐待したり、殺したりしまくっている一方で、守ろうとする気持ちも強い。だからこそ、鼠を取る必要もない今もあたしたち猫と共存しているのだろう。犬もしかりである。ただちょっと話が変わるが、思うのだが、ヒトは生き物を殺す機会がものすごく少ない。肉も魚も植物も、自分で殺すことなく食している。無数の死のもとに日々暮らしているというのに、その自覚がないから、死に不慣れなのかもしれない。かく言うあたしだって、生き物を狩る機会など無く過ごしてきた。でもヒトの常識をそれほど持っていないから、こういう疑念を差し込む余地がある。

 話を戻そう。ヒトのネガティブな話のほうが共感しやすい傾向であるが、それは社会性の異常なまでに高い種族の特徴かもしれない。敵を排除するための団結力が強いのだろう。あたしたち猫や犬は、もう少し世界が狭く、争いは個対個であることが多い。それに猫は団結することもない。そんなわけでネガティブな共感を欲する気持ちがないのかもしれない。そんなわけで、一つ屋根の下に、あつまる生き物群としては、何かを好きだという気持ちで結ばれることができる。ヒトにおいても、うちのなかならそうなるものかもしれない。

 このうちには、悲しみのような胸を締め付ける感情が広がることがあっても、怒りがぶつかりあうようなことが起こらない。ヒトとヒトは好きだと言い合い、慈しみあい、それどころか、わんこに猫をできるだけ大切にしようとして接してくれている。愛情に物量があるなら、注ぐ対象が増えれば、一個体に注がれるそれも減るかもしれないが、そういうことはあまり感じない。

 家人たちは、息子のカントの死の影に触れて、ますます互いにも、あたしやわんこたちにも優しく接するようになっている。彼ら特有の有限性に対する強い意識の現れであろう。

 そう考えると、死というものは、ヒトの愛情の形成の根底にあるものなのかもしれない。散る桜(観たことがない)を愛おしむのに似たものか。死は喪失というより、むしろヒトの世界の愛情を生み出す機構なのかもしれない。


 とは言え、痛そうな息子は痛ましい。愛情の代償か。高く付くものである。であれば、いただく愛情も大切に思うべきであろうか。




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[ 2015.04.03 | 猫日記 | コメント: 0 | PageTop↑ ]

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