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秋なん? 冬なん? 

光の雰囲気と外から聞こえる音が変わった。硬質な細い。光も音も。しかし聞こえてくる鳥の声には元気がある。このあたりの鳥が元気なのか、今年の秋冬は鳥にとって豊作で過ごしやすいのか。あたしに知るすべはないが、今にも死にそうな鳴き声を聞かされるよりは良い。できるかぎりみんな元気で幸せで楽しいのが良い。どうせ死ぬのに、死ぬ前からあんまり元気がないのももったいないと思う。猫らしからぬかもしれないが。どのへんが猫らしくないかって、えっと、猫はヒトのようにさきのことはそんなに考えないから。そもそも死とかそれほど知らない。はず。にも関わらずあたしが死というものについて考えるのは、飼い主きどりのくねくね(情緒は最近安定しているが、一人暮らし。ときどき夜に江頭2時五十何分と氷川きよしを合わせたような踊りを音楽に合わせて一人で踊っている。できることなら警察を呼びたい不吉さのある踊りだ。召喚? なにか召喚するのか? と訝しげに眺めているとそのうちに儀式的なその踊りは終わって、満面の笑みで(ひとりなのに)「楽し!」と漏らす。誰かいい人いないだろうか。あたしたちの平穏があやぶまれるのよ。

そうそう、そのくねくねがって、括弧閉じてないやん。そんなくねくねである……)が、あたしたちに接するときにあたしたちごしにあたしたちのい死を見つめているのだ。あたしたちが死ぬことを忘れないようにして接するのだ。最初はしばらくそれがほんとに嫌だった。勝手に殺してんじゃねーよ、といういらだちを感じて、よく噛んだものだった。そのうち、やつのほうでもバランスをとったみたいで、なんというのか、悲しみを帯びた目を見せなくなった。しかし彼が忙しくてもあたしたちと遊び、さっき床についたばかりなのに夜明け前にご飯を出してくれたりするのは、その行動の背後にあたしたちの死を彼は意識しているからであって、わかりやすく言うとあたしたちが死ぬときに「ああしてあげればよかった」と思わないで済むように心がけているからである。(実際に誰かに言っているのを聞いた。)

そんなわけですっかり、あたしは(息子は気にしてない)、猫のわりに死について考えがちになってしまった。猫でもヒトに影響を受けることがある。というか大いにあるだろう。夜行性動物なのに、夜はぐっすり眠っている。眠れない夜は(ないけど、あるとして)、芦田愛菜を数えて過ごしている。芦田愛菜がひとり……(「あのね、芦田愛菜だよ!」とモノマネするヒトの声)、芦田愛菜がふたり「あのね、芦田愛菜だよ!」とモノマネするヒトの声)……とやっているうちにゴロゴロいって寝てしまう。芦田愛菜、最高。


そんなわけで死の予感にも慣れが、くねくねが幸せでおだやけであるなら、あたしたちはおおむね、どんな予感や予定にも惑わされることなく、幸せでおだやかである。

とくに晴れている日にはそう感じる。



[ 2013.11.22 | 猫日記 | コメント: 2 | PageTop↑ ]

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